忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

忍びの衆

  • posted at:2007-01-05
  • written by:砂月(すなつき)
大映
配給:大映
製作年:1970年
公開日:1970年2月7日 併映「続・いそぎんちゃく」
監督:森一生
原作:司馬遼太郎
脚本:山田隆之
企画:久保寺生郎
撮影:森田富士郎
美術:下石坂成典
音楽:鏑木創
照明:山下礼二郎
録音:大谷巖
編集:谷口登司夫
音響効果:倉嶋暢
擬斗:楠本栄一
助監督:辻光明
製作主任:長岡開修
出演:松方弘樹 峰岸隆之介 本郷功次郎 安田道代 藤村志保
シネマスコープ モノクロ 79分

柴田勝家との合戦を控えた羽柴秀吉は二十人の伊賀者を選び極秘の任務を与えて越前北ノ庄城に送り込んだが、ひと月経っても誰一人帰ってこなかった。そこで秀吉は、同じ任務を音羽の城戸に託すことにした。 極秘任務とは、勝家の奥方であるお市の方を城中からかすり傷ひとつ負わせずに盗み出し、大津・三井寺へ連れて行くことだった。亡き信長の妹を手に入れれば、形勢は優位に働く。秀吉はそう考えていた。城戸は木城の与四郎、鬼瘤にこの大役を命じた。

北ノ庄城の本丸御殿は鉄の密室作りになっているため、破ることは困難だった。さらに合戦の前ということもあり、一層厳重な警備の目をどうやって潜り抜けるかが最大の難点だった。城戸の娘・小弓は、任務を全うしようとする与四郎を止めた。鬼瘤も師匠のやり方に憤っていた。ところが与四郎は「掟」を理由に二人の反対を押しきって出て行った。 与四郎がこの任務を引き受けた理由はただ一つ、織田信長への復讐だった。天正九年九月、四万六千人もの大群で伊賀の里を取り囲み、住民を虐殺した。そのときに与四郎の父や母、妹が殺されたのだ。与四郎の身を気遣った鬼瘤は後を追いかけた。

二人は賎ヶ嶽の麓で大量の死体を発見した。それは先に送り込まれた伊賀者たちの無惨な姿だった。足の裏には十字の深い切り傷が刻まれていた。人の気配で与四郎たちは警戒したが、それは城戸から同じ任務を言い渡された名張の助太夫、喰代のおりんだった。伊賀者の間では足の裏に傷をつけることで死霊が後を追わないようにするという古い迷信があったが、そのような風習は既に廃れていた。もしそのような伊賀者がいれば百歳近いはずだった。助太夫は言った。「思い当たる人物がいる。愛染明王だ!」。

屋台的映画館
PR

忍びの者 新霧隠才蔵

  • posted at:2006-12-27
  • written by:砂月(すなつき)
しのびのものしんきりがくれさいぞう
大映
配給:大映
製作年:1966年
公開日:1966年2月12日 併映「ザ・ガードマン 東京忍者部隊」
監督:森一生
脚本:高岩肇
企画:財前定生 仲野和正
撮影:今井ひろし
美術:太田誠一
音楽:斎藤一郎
照明:山下礼二郎
録音:大谷巖
編集:谷口登司夫
擬斗:楠本栄一
助監督:大洲斉
製作主任:小沢宏
出演:市川雷蔵 藤村志保 楠侑子 田村高廣 千波丈太郎
シネマスコープ モノクロ 87分

元和元年五月八日、大阪夏の陣最後の日もいよいよ終末に近づいていた。そして家康の執念は実を結び、徳川家は天下統一を達成した。家康は将軍職を秀忠に譲ったが、政治の実権は依然として家康の手に握られていた。武家諸法度を発布し全国の諸大名を押さえ込んだが、家康が最も恐れていたのは真田残党の忍者だった。毒を制するには毒を使うのが早道だと考えた家康は、風魔一族を呼び寄せて伊賀忍者の絶滅を命じた。風魔大十郎率いる一派は総勢三十名。彼らは風魔忍法を操った。武田信玄に仕えた乱波の末裔である風魔一族の体には源氏の血が流れ、伊賀忍者は平家の流れを汲んでいた。不倶戴天の敵を討つ機会を狙っていた大十郎にとって今回の身辺警護は好都合だった。

駿府城周辺では忍者狩りが行われていた。磔にされた仲間を不憫に思った霧隠才蔵は、死骸を奪うと丁重に弔った。そこを通りかかった鴉佐源太は、音羽弥藤次を頭とする伊賀忍者の生き残りが家康への復讐の機会を窺っていることを才蔵に話した。彼らは町端れにある荒れ寺の地下濠に潜んでいた。あかねは家康直参の侍に近寄り、情報を集めて駿府城の見取図を作成した。だが肝心の大御所の居場所がわからなかった。才蔵たちはその見取図を頼りに城に忍び込み、ついに家康の寝所を突き止めた。しかし喜んだのも束の間、それは替え玉だった。罠に陥入れられた五人は次々に命を狙われた。才蔵は大奥の一室に逃げ込み、部屋の女主人である弥生は何故か才蔵をかくまった。弥生は才蔵に、自分は長曽我部盛親の姪で、千姫の供として城に身を寄せてはいるが、いつかは家康を倒そうと狙っているのだと打ち明けたのだった。後日、才蔵は弥生の言葉を信じ、弥藤次と面会させることにした。そして弥生は、家康謀殺計画の協力を約束した。

屋台的映画館

忍びの者 伊賀屋敷

  • posted at:2006-12-23
  • written by:砂月(すなつき)
しのびのものいがやしき
大映
配給:大映
製作年:1965年
公開日:1965年6月12日 併映「狸穴町0番地」
監督:森一生
脚本:直居欽哉 服部佳
企画:伊藤武郎
撮影:今井ひろし
美術:太田誠一
音楽:渡辺宙明
照明:伊藤貞一
録音:林土太郎
編集:谷口登司夫
装置:高地汗
擬斗:楠本栄一
音響効果:倉島暢
助監督:大洲斉
製作主任:大菅実
出演:市川雷蔵 八千草薫 山形勲 鈴木瑞穂 今井健二
シネマスコープ モノクロ 89分

寛永十四年、関ヶ原以来の豊臣の残党は島原の乱に多数参加し死力を尽くして戦ったが、衆寡敵せず、遂に潰滅した。勝ち誇った徳川軍は、総大将松平伊豆守信綱を先頭に意気揚々、江戸に向かって凱旋した。だがここにあくまで徳川を仇敵と狙う最後の一人がいた。霧隠才蔵は亡き殿の無念を晴らすために単身で徳川軍に斬り込む覚悟を決めた。そこで子息である才助にこれまでのいきさつを話すことにした。才助とともに育てた妹の小百合は、真田幸村が最後の合戦に出陣する際、才蔵に預けた百合姫だった。才蔵は、才助に姫の命を守るように言うと霧隠家に代々伝わる諸刃の剣を渡した。才助に別れの言葉を告げた才蔵は、木陰から伊豆守が街道を通る頃合いを見計らっていた。そして隊列が差し掛かったとき、才蔵は勢い良く飛び出し斬りかかった。しかしいくら才蔵と言えども多勢が相手では分が悪かった。追い詰められた才蔵は自害して果てた。

慶安三年。柳営三代の穏やかな天下は、一門親族の確執や上下相尅を根絶するために儲けられた切腹、家名断絶、領地没収等峻烈非情な政策の上に築かれていた。一門の岡崎三郎信康を始め大名小名の取り潰しは、総高七百二十二万八千五百三十余石に上った。その結果陋巷にさ迷う浪人の数はおよそ二十万に達し、生計の道を断たれた彼らの鬱積した不満は不気味な暗雲となって天下にたれこめていた。丸橋忠弥と金井半兵衛は江戸城内の絵図面を挟んで顔をつき合わせ、幕府転覆の計略を練っていた。二人はそこに現れた忍者たちに襲われたが、新たに現れた忍者に助けられ事なきを得た。その男は、伊豆守配下の甲賀忍者にくれぐれもご注意を、と言い残し去って行った。

道場にやってきた男は、丸橋を通じて由井正雪と話し合う場を得た。男の正体は才蔵の最後を遠くから見届けた才助だった。才助はあの日から父の意志を受け継ぎ、同時に名も受け継いでいたのだ。天下にあまねき微動だにしない徳川の権勢を打ち破るには、志を同じくするものが力を合わせる必要があった。しかし正雪はあくまで中立の立場を守ろうとした。才蔵は一騎当千の門弟たちを京、大阪の要所に配していることを例に挙げ、無関心を装っている正雪が決起の機会を窺っていることを指摘した。

才蔵は敵の内情を知るために伊豆守の邸に小物として忍び込んだが、そこで思わぬ人物と再会した。それは、子供のときに生き別れた百合姫だった。

屋台的映画館

忍びの者 続霧隠才蔵

  • posted at:2006-12-19
  • written by:砂月(すなつき)
しのびのものぞくきりがくれさいぞう
大映
配給:大映
製作年:1964年
公開日:1964年12月30日 併映「座頭市関所破り」
監督:池広一夫
脚本:高岩肇
企画:伊藤武郎
撮影:牧浦地志
美術:西岡善信
音楽:池野成
照明:山下礼二郎
録音:大谷巖
編集:谷口登司夫
装置:梶谷和男
擬斗:楠本栄一
音響効果:倉嶋暢
助監督:黒田義之
製作主任:大菅実
出演:市川雷蔵 城健三朗 藤村志保 藤由紀子 小沢栄太郎
シネマスコープ モノクロ 91分

元和元年五月八日、大阪夏の陣は遂に最後の段階に突入した。徳川家康は、配下の者たちに豊臣家一族並びに豊臣家に繋がる武将を一人残らず討ち果たすように命じた。敗色濃厚の大阪城では、真田幸村が自害して果てようとしていた。このまま何も講じずに家康に天下を委ねることは得策でないと考えていた霧隠才蔵は、幸村を説得すると城の裏口に誘導した。安治川河口に浮かぶ小舟では黒装束の男が櫓を漕いでいた。小舟で城を後にした幸村は、宵闇を利用した服部半蔵を始めとする忍者たちに襲撃された。才蔵の活躍により追撃を退けたが、その代償として幸村の子息・大助の命が奪われた。幸村たちは、雑賀港に到着すると密貿易船に乗り込み薩摩を目指した。

落ちのびた幸村は島津家久や隠居した義弘に暖かく迎えられた。知将と手を結び、義弘は上機嫌だった。合戦の行方は鉄砲の優劣で決まるため、高性能の火器を掌握できれば打倒家康も夢ではなかった。そのためには最新の鉄砲を手に入れる必要があった。義弘は薩摩に立ち寄った職人・種ヶ島久尚から献上品を受け取った。それはポルトガルから下絵を取り寄せて作った三連発砲だった。義弘は製造方法について探りを入れたが、久尚は断じて口を割ろうとはしなかった。試作品を手にした幸村はその出来映えに感嘆した。しかしポルトガルでは良質の鉄鉱石は採掘されていないはずだった。薩摩はポルトガルとしか交易を許されていなかったため、その謎を解明して久尚から聞き出すことができれば、大量の鉄砲を入手することが可能だと幸村は考えていた。義弘は、大御所が近々太政大臣に任命され、必ず一年以内に京へ上ると予測していた。この機会を逃す手はなかった。ところが南晴幸と改名した幸村が鶴丸城内にかくまわれていることは駿府の家康に筒抜けだった。才蔵は藩の中に潜む隠密を探し出し、それが自源流師範・海江田一閑斎、茶の宗匠・宗全であることを突き止めた。代々島津家へ仕えていた二人の裏切りに義弘は怒りが収まらなかった。

才蔵は鉄砲製造の秘法を探るために種子島に潜入した。溶鉱炉は厳重にされていることから、ここに重大な秘密が隠されていることは間違いなかった。才蔵はありのままを密書にしたため、伝書鳩を飛ばした。

屋台的映画館

忍びの者 霧隠才蔵

  • posted at:2006-12-16
  • written by:砂月(すなつき)
しのびのものきりがくれさいぞう
大映
配給:大映
製作年:1964年
公開日:1964年7月11日 併映「座頭市あばれ凧」
監督:田中徳三
脚本:高岩肇
企画:伊藤武郎 財前定生
撮影:武田千吉郎
美術:内藤昭
音楽:伊福部昭
照明:中岡源権
録音:海原幸夫
編集:山田弘
装置:梶谷和男
擬斗:楠本栄一
音響効果:倉嶋暢
助監督:土井茂
製作主任:大菅実
出演:市川雷蔵 城健三朗 磯村みどり 中村鴈治郎 小林勝彦
シネマスコープ モノクロ 87分

関ヶ原の合戦によって天下統一をなしとげた徳川家康は、京都方広寺の鐘銘を口実として豊臣家に戦を挑んだ。豊臣秀頼とその母・淀君は、古今の名城と謳われる大阪城に立てこもって家康軍を迎え撃った。慶長十九年十一月、大阪冬の陣である。秀頼は豊臣家に恩顧のある大名たちに救援を求めたが、敗色の濃い豊臣家に加担する者はいなかった。そこで秀頼は亡き父・秀吉が遺した莫大な資産を用いて全国の浪人衆を集めたが、家康に一矢報いる執念に燃えていた真田幸村、後藤基次等少数の武将と一旗上げようと目論む浪人、合わせて七、八万人を数えるのみだった。
これに対し茶臼山に陣を進めた家康は、二十万の大軍を動員して鉄壁の包囲体勢を布いた。日ならずして和議は成立し、大阪は平和をとりもどした。

和議の条件は大阪城の外堀を埋めることになっていたが、堀埋立奉行・松平下総守忠明が人足五千余人を使って内堀まで埋めようとしていることに不審を持った霧隠才蔵は、急いで立ち戻り幸村の耳に入れた。しかしその話に幸村は動じなかった。合戦を仕掛けたのも家康、和睦の手を差し伸べたのも家康。和睦のための戦であり、豊臣家の息の根を絶つための和睦でもあった。合戦の前までは豊臣家にも勝利の望みはあった。幸村は積極的に出撃して家康を討つことを主張していたが、淀君の謎の側近に押し切られ秀頼は篭城することを選んだのだ。そのとき運命は決まった。

幸村は全国各地に散らばる間者を集め近況を報告させた。全国の諸大名は家康に靡いていた。間者の一人・彦八は、平穏そのものであるという駿府の様子を報告した。兵員や武器等を補充する動きがないことから再び合戦を仕掛けてくるとは考えにくかった。幸村は、その真相を探るために子息・大助を薩摩に向かわせた。家康の動きについてお互い知らせ合うことになっていたのだ。

明早朝、薩摩に出発した大助は彦八に命を狙われたが、才蔵によって助けられた。寝返った間者を送り込んできていることから、幸村は堀の埋立工事の終了後に家康が攻めてくることを確信した。そこで幸村は、駿府に潜入し家康の動向を探るよう才蔵に命じた。

屋台的映画館

プロフィール

HN:
砂月(すなつき)
性別:
非公開
自己紹介:
ブログ主はインドア派大分トリニータサポーター

 

フリーエリア

 

P R