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斬る(1962年)

  • posted at:2013-03-11
  • written by:砂月(すなつき)
きる
大映(京都撮影所)
配給:大映
製作年:1962年
公開日:1962年7月1日 併映「黒の試走車
監督:三隅研次
企画:宮田豊
原作:柴田錬三郎
脚本:新藤兼人
撮影:本多省三
音楽:斉藤一郎
照明:加藤博也
録音:大角正夫
美術:内藤昭
編集:菅沼寛二
装置:梶谷和男
擬斗:宮内昌平
音響効果:倉島暢
助監督:辻光明
製作主任:橋本正嗣
現像:東洋現像所
出演:市川雷蔵 藤村志保 渚まゆみ 万里昌代 成田純一郎
シネマスコープ カラー 71分

小諸藩士の高倉信吾は、ただなんとなく旅に出たくなり養父の信右衛門に願い出た。信右衛門は藩主・牧野遠江守康哉に伺いを立てると、悲しい運命を背負っているのだから労ってやろうと三年間の条件をつけて許した。信吾の身を案じ、帰りを誰よりも心待ちにしていたのは義妹の芳尾だった。やがて三年が経ち、遠江守のもとへ参じた信吾は、何をして何を見てきたという問いにただ野や山を見てきたと答えた。すると遠江守は、いいことをしたなとにこやかに言った。小諸藩の師範が武道奨励のために水戸講道館の筆頭で新道無念流の使い手である庄司嘉兵衛を招き、試合が行われることになった。嘉兵衛には酒乱の博徒を斬り捨てた罪で一時流浪していたという噂があった。そのような者に皆が打ち据えられたときは、藩の面目が丸つぶれになることも考えられた。危惧は現実となり、御忍びで来ていた遠江守は師範に信吾を出してみよと命じた。小諸藩で一番剣術に縁遠い者が指名されたことで、藩士たちは皆下を向いた。信吾は「三絃の構え」という異様な構えを見せると嘉兵衛は打ち込むことが出来なかった。切っ先が喉元を捉えていたからだ。師範が試合が止めると、迫力に圧されて動けなかった嘉兵衛は敗北を認めた。

信吾が嘉兵衛に勝って以来、池辺義一郎のやっかみが以前とは比べ物にならない程酷くなった。高倉家の隣に住む義一郎は小さい頃から信吾のことを見ていたが、腕前は子息の義十郎の方が上だと信じていた。ところが義十郎の手に負えなかった相手を信吾が倒したことで彼の誇りは脆くも崩れ去った。遠江守に寵愛される信吾の姿に我慢ならなくなった義一郎は、藩士たちに奴は付議密通か筋素性を語れぬ暗い過去を持った貰い児だと吹聴して回ったのだ。その話を偶然聞いた信吾は心を痛めた。ある日、信吾が胸につかえた質問を養父にすると、義十郎が芳尾を嫁に欲しいと言って来たのだが断わったため、それを根に持ってのことだろうと信右衛門は答えた。そして誰が何と言おうとお前はわしの子だと強く言った。遠江守に注意を受けた義一郎は、信右衛門の告げ口のせいで出世の道が断たれたと考えていた。そこで彼は義十郎をつれて高倉家に向かい、芳尾を斬殺したのだった。
 
義一郎に斬られた信右衛門は信吾に出生の秘密を伝えると息絶えた。信吾の母は飯田藩士山口弾二郎の娘・藤子だった。若山という妾が飯田公を虜にしていることを憂いた城代家老・安富主計は、江戸屋敷の侍女として仕える藤子に命じて討たせたのだった。藤子は処刑のために国許へ送られることになったが、飯田公の奥方は彼女の一命を助けたいと安富に相談した。一計を案じた安富は、長岡藩から使者として来ていた多田草司に駕籠を奪って懐妊させて欲しいと願い出た。子供を産ませれば情に絡んで処刑を免れることが出来るのではないかと考えたからだ。一年も経てば飯田公の心は和らぐ。多田はその役目を引き受け、一年後に安富は幸せの暮らしていた二人を捕らえたのだった。だが飯田公の気持ちは溶けなかった。処刑されることになった藤子の討ち手を命じても皆が命を賭して断わった。そんな中、多田が自ら名乗りをあげ役目を買って出たのだった。 怒りに燃える信吾は池部親子を待ち伏せ、恨みを晴らした。その話を聞いた遠江守は、追ってはならんと家臣に命じた。

屋台的映画館
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砂月(すなつき)
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