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涙くんさよなら

  • posted at:2006-06-16
  • written by:砂月(すなつき)
なみだくんさよなら
日活
配給:日活
製作年:1966年
公開日:1966年7月30日 併映「私、違っているかしら」
監督:西村昭五郎
企画:笹井英男
脚本:倉本聰 明田貢
撮影:姫田真佐久
音楽:浜口庫之助 林一
主題歌:「涙くんさよなら」ジョニー・ティロットソン
・・・:「バラが咲いた」ジョニー・ティロットソン
・・・:「夕陽が泣いてる」田辺昭知とザ・スパイダース
・・・:「唖のジュリー」田辺昭知とザ・スパイダース
・・・:「フリ・フリ」田辺昭知とザ・スパイダース
美術:横尾嘉良
照明:岩木保夫
録音:沼倉範夫
編集:辻井正則
助監督:近藤治夫
色彩計測:安藤庄平
現像:東洋現像所
製作担当者:岡田康房
協賛:株式会社ピロン本社 VANヂャケット
出演:ジュディ・オング 山内賢 和田浩治 太田雅子 ジョニー・ティロットソン
シネマスコープ カラー 82分

ワシントン郊外に住むジュリー・クリプトンは、軍人でアメリカ人の父親と芸者で日本人の母親・葉子の間に生まれたが、父親が彼女を引き取って育てた。ある日、父親が戦死したことを知らされたジュリーはショックを受け、もう一人の肉親である母親に逢いたいと漏らすようになった。ジュリーのことを心配した父親の友人たちはぜひとも母親に逢わせるべきだと考えていたが、渡航させるための費用をどうやって工面するかが問題だった。そこで友人の一人が募金をしてみてはどうかと提案した。しかし慈善団体が日本の芸者を探すための費用を簡単に出すとは思えなかった。そこで彼らはマスコミを利用して一芝居打つことにした。父親を失ったショックで口が利けなくなった哀れなジュリーを日本へ。この大々的なキャンペーンは全米で話題になり、日本にも飛び火した。SATテレビでは急遽特番を組むことになったが、その力の入れ方は並外れていた。それは猪又社長夫人が婦人文化連盟の会長を務めていたからだった。SATテレビは特番チームに個性派集団の御前一家を抜擢した。

日本に到着したジュリーだったが、空港で待ち構える慈善団体やマスコミの盛況ぶりに嫌気がさし、こっそりとその場を抜け出した。一人で母親を捜すことになったジュリーは、昔母親が勤めていた料亭・山岡を訪ねた。しかし葉子はそこにはいなかった。その頃、別の部屋には猪又社長が客として来ていた。彼は女将から葉子の居場所を聞き出そうとしていたのだ。そもそも15年前に葉子を料亭から追い出すきっかけを作ったのは猪又だった。葉子に言い寄って振られた彼は、アメ公の子を産むようなふしだらな芸者は追放しろと激怒した。それと同じくしてやきもちを焼いた夫人が追放運動を起こし、クリプトン親子と葉子の仲を引き裂いたのだ。

都合のいい話を聞いて頭にきた山岡の女将は薄っぺらなヒューマニズムに協力する気など毛頭なかった。彼女の息子・健とその仲間たちも売名行為に抵抗を感じていた。自分たちの手でジュリーの母親を捜し出すことになった健たちは、女将から軍資金を受け取ると葉子の転居先である祇園の料亭「嶋の家」へ向かった。一方、御前は空港でジュリーを見失ったことを常務から叱責されていたが、そこに割り込んできた山辺キャップが母親捜しのドキュメンタリーを作ることを提案をすると一転して上機嫌になった。ジュリーが独力で母を捜す姿をドキュメンタリーに定評がある御前が尾行して撮影すれば、芸術大賞も夢ではなかったからだ。SATテレビは局をあげてジュリー捜しを始め、ついに健たちのポンコツオープンカーを発見した。

屋台的映画館
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ブログ主はインドア派大分トリニータサポーター

 

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