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忍びの者

  • posted at:2006-07-09
  • written by:砂月(すなつき)
大映(京都撮影所)
配給:大映
製作年:1962年
公開日:1962年12月1日 併映「風神龍神」
監督:山本薩夫
製作:永田雅一
企画:伊藤武郎 土井逸雄
原作:村山知義
脚本:高岩肇
撮影:竹村康和
音楽:渡辺宙明
録音:奥村雅弘
照明:加藤博也
美術:内藤昭
編集:宮田味津三
装置:川口隆
擬斗:宮内昌平
邦楽:中本敏生
音響効果:倉嶋暢
助監督:西沢鋭治
製作主任:橋本正嗣
出演:市川雷蔵 藤村志保 伊藤雄之助 小林勝彦 城健三朗
シネマスコープ モノクロ 104分

天正元年夏。全国制覇の野望に燃える織田信長は、朝倉義景、浅井長政の連合軍を北近江の地で撃破した。大敗を喫した義景は越前まで逃げ延びたが、宿所としていた六松賢松寺を裏切った朝倉景鏡の手勢に包囲され自刃した。本拠の小谷城に篭城した長政も羽柴秀吉の軍勢による急襲で戦力を分断され、自害に追い込まれた。織田軍の勝利は忍者たちの暗躍に支えられていた。伊賀忍者は上忍三家(服部家、百地家、藤林家)で統括され、信長は百地三太夫の活躍ぶりを高く評価していた。だが主従関係を持たない三太夫は信長の全国制覇を快く思っていなかった。信長は比叡山に火を放ち、千体の尊像を一挙に灰燼としただけでなく千六百人もの僧侶たちを皆殺しにした。忍術は、天智天皇の時代に修験道の開祖と呼ばれた呪術者・役行者小角(えんのぎょうじゃこずね)の影響を受けた天台、真言両密教の山伏たちが仏法を広め守るために始めた術だった。天台宗の活動拠点である延暦寺に火を放つことは尊い仏法に、そして印を結び呪を唱える忍者に弓を引くことと同じだった。藤林家の当主・長門守は砦に一同を集め、信長討つべしとの言明を下していた。それを知った三太夫は、仇敵である信長の首を我らの手で挙げるのだと下忍に命じた。投げの与八らが信長討伐に燃える中、三太夫は石川村の五右衛門に砦に残るように言った。帳付けの一切を歳の離れた妻・イノネに任せていたが、女一人には荷が重すぎた。そこで計数に明るいに彼に手伝って欲しいというのだ。五右衛門は身に余る光栄と快く引き受けた。ついに下忍の暮らしから抜け出せると考えたからだった。

長門守は一向一揆の本拠である伊勢長島に信長が必ず襲い掛かると考えていた。その頃、岐阜稲葉山城には各地から武将が参集していた。ただならぬ気配を感じた長門守の腹心の部下である大炊の孫太夫は、信長急襲の気配ありという矢文を誓願寺に放った。長門守はくノ一のタモを民衆に紛れ込ませて時を待ったが、勢いに乗る信長を止めることは出来なかった。朝廷に強制して自ら内大臣となった信長に三太夫は恐れを抱いていた。今のうちに息の根を止めて置かなければ忍者の将来が危ないと考えていた三太夫は、毒の使い手である九度兵衛と手裏剣の名手である投げの与八を派遣した。

ある日、イノネは五右衛門に自分のことをどう思うかと聞いた。三太夫は輿入れ以来、イノネの手すら触れようとはしなかったのだ。冷たい仕打ちを受けるイノネと若い五右衛門は深い恋に落ちて行った。だがそれは全て三太夫の計略だった。イノネを殺された五右衛門は身の危険を感じて逃げたが、その先で三太夫は待っていた。問い詰められ観念した五右衛門に三太夫は生かすための条件を出した。一つ目は信長を殺すことだったが、もう一つは機会を待つ間に盗賊を働くことだった。五右衛門が仕損じた場合、信長が里へ攻めてくる可能性があった。そのための莫大な軍資金が必要だったのだ。盗みは忍者の御法度だと弁明したが、イノネのことを持ち出されると五右衛門は断わることが出来なかった。

屋台的映画館
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