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新 忍びの者

  • posted at:2006-07-19
  • written by:砂月(すなつき)
しんしのびのもの
大映(京都撮影所)
配給:大映
製作年:1963年
公開日:1963年12月28日 併映「悪名一番」
監督:森一生
製作:永田雅一
企画:伊藤武郎
原作:村山知義
脚本:高岩肇
撮影:今井ひろし
音楽:渡辺宙明
録音:林土太郎
照明:伊藤貞一
美術:太田誠一
編集:谷口孝司
装置:川口隆
擬斗:楠本栄一
音響効果:倉島暢
助監督:大洲斉
製作主任:田辺満
出演:市川雷蔵 若尾文子 東野英治郎 三島雅夫 成田純一郎
シネマスコープ モノクロ 86分

豊臣秀吉の暗殺に失敗した石川五右衛門は、京三条河原において釜煎りの極刑に処せられた。煮えたぎる油の中から仁王立ちになった五右衛門は、貴様の面は忘れぬぞと役人を睨み付けた。するとその役人は三日三晩熱に犯され、ついに発狂したのだ。その後、五右衛門の首は六角の辻に晒されたが十日経っても人だかりは一向に減らなかった。ある夜、五右衛門の首が何者かによって持ち去られ、すぐ後に役人の家に泥棒が入った。泥棒は供養料として五百両を持ち出し書付を残した。翌日、五百両は無縁仏に供えられていたが、驚いたのは檀家や住職たちだった。その騒動を町人たちは胸の空く思いで語り合った。泥棒の名は石川五右衛門。釜の前に立つ五右衛門の周りに煙幕を張った服部半蔵は、役人たちが慌てる隙を狙って身代わりとすり替えたのだった。誰の手も借りずに秀吉を殺そうと考えていた五右衛門は世間を騒がせながら時を待っていたが、それは徳川家康の策略どおりだった。

明智光秀討伐の戦功を足掛かりにして一挙に天下の覇者となった秀吉は、天下統一を果たした翌年の天正十九年、後継者に指名していた鶴松が病死したことで、甥の秀次を養子に迎えた。そして関白職を譲ると太閤として実権を握った。だが翌々年の文禄二年に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀吉は秀頼の方を寵愛するようになった。この事態を知った秀次は動揺を隠せなかった。秀吉は諸大名を参集し秀頼を披露し、何者にも変えがたい余の宝であるねねと秀頼の二人に指一本たりとも指すことは罷りならんと言い放った。そして、日本国内の統一は成り国威は隆盛の一途を辿っているこの機に乗じて民国、朝鮮を制覇すると宣言した。

侍に囲まれ御輿に乗った秀頼の姿を見た五右衛門は、忍者狩りに殺された我が子吾平の姿と重ね合わせていた。そして七度生まれ変わって秀吉を八つ裂きにし豊臣一族を根絶やしにしてやる、そう心に誓った。その頃秀吉は、秀次に国内の政を任せて朝鮮に出陣しようとしていた。五右衛門が京の町を荒らし回ったのは秀吉への果たし状だったが、相手は全く気付いていなかったのだ。そこで五右衛門は忍者狩りから逃れた名張の犬八とともに秀頼強奪を実行した。

屋台的映画館
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砂月(すなつき)
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