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剣鬼

  • posted at:2010-07-09
  • written by:砂月(すなつき)
けんき
大映(京都撮影所)
配給:大映
製作年:1965年
公開日:1965年10月16日 併映「掏摸(すり)」
監督:三隅研次
企画:加賀四郎
原作:柴田錬三郎
脚本:星川清司
撮影:牧浦地志
音楽:鏑木創
録音:大谷厳
照明:山下礼二郎
美術:下石坂成典
編集:菅沼完二
装置:木村重雄
擬斗:宮内昌平
音響効果:倉島暢
助監督:友枝稔議
現像:東洋現像所
製作主任:田辺満
出演:市川雷蔵 姿美千子 佐藤慶 五味龍太郎 睦五郎
シネマスコープ カラー 83分

信州、海野式部少輔正信の母・まきの方は気が振れて死んだ。侍女たちは狂気を恐れて暇ごいし奥向きから去って行ったが、キンだけは最後まで忠節に仕えた。死ぬ間際に正気に返ったまきの方は、中老として待遇し生涯の面倒を見るよう正信に遺言してあることをキンに伝え、寵愛していた牡犬を託すとこの世を去った。それから三年後、キンは男子禁制の奥向きにも関わらず、相手が何者とも知れぬ男の子を産み落として悶え死んだ。寄り添っていた牡犬もその死を恨んでか十日十夜吼え通して餓死した。藩中では犬と交わって孕んだのではないかという憶測が立ち、瞬く間に広がって行った。信濃へ送られることになったその子には、殉死した犬が斑だったことから斑平と名付けられた。斑平は犬っ児と呼ばれ続けて宿命に耐えた。

二十三年後、斑平を実の子供のように育てた伍助は病気で倒れ、人の知れないうちに家中の者が驚くような一芸を身につけておくがいいと言い残して息を引き取った。斑平は無足長屋の空き地によそから土を運び込み花造りを始めた。次々と咲く美しい花は人々の心を和ませ、その噂は城主・池永丹左衛門にまで届いたのだった。登城を許された斑平は城内の櫓下で花造りを任された。藩主・正信に奇行が目立ち始め、城代・影村主膳や小姓頭・神部菊馬はこの事実が江戸表の幕府閣老の耳に入ることを恐れていた。公儀隠密が放たれ白日に晒されるようなことがあれば、お家改易になることは目に見えていた。その一環として斑平に花を造らせることになったのだが、正信は飛んで来た虫に怒り狂い、この花が虫を養っているんだと刀で叩き切り始めたのだ。陰から様子を窺っていた斑平は、丹精に育てた花々が切り刻まれて行くのがいたたまれなくなり石を投げつけたのだった。刀を取り落とした正信は曲者だとわめいたが、菊馬は空から降って来た物が当たったのだと斑平をかばった。正信の奇行は日増しに酷くなって行った。馬責めで半時ばかり馬を走らせてはいきなり停まり、役の物に轡を取らせ、少しでも遅れれば癇癪玉を破裂させた。その話を聞いた斑平は供をさせて欲しいと願い出、津崎太一右衛門から自分の足でついて行くのならという条件で許可をもらった。ある日、正信が気紛れで馬を走らせたことで配下の者たちは誰もついて来れなかったが、馬が必要ない斑平だけが追い掛けることが出来た。正信に見る見る追い付き轡を取ることが成功した斑平は無足組頭となり馬乗下役に付けられた。

山へ土を取りに行った斑平は、居合いの稽古をする浪人の姿に心を打たれた。斑平が今の居合いの術はどうしたら習得出来るのでしょうかと尋ねると、居合術は抜いて斬って納める、ただそれだけのことだと初老の浪人は言った。そして学びたければ瞳を据えて見つめることが肝要だと言った。剣に魅せられた斑平は毎日通い続け浪人の稽古に立会った。そして幾月か経った頃、浪人はどうやらお別れのようだと言った。斑平の気迫が圧倒するように感じられたからだ。それは斑平も同じだった。浪人が刀を抜こうとする瞬間がわかり、冴え走った刀身の一撃一撃の動き、そして斬り終わって鞘に納まるまでの全てを初めて自分の目ではっきり見ることが出来たのだ。斑平は浪人から太刀を授かった。城下に公儀隠密が入り込んでいることがわかり、菊馬は斑平に暗殺を命じた。京都千家の添書を持った茶道の宗匠が狙いだったが、既に逗留していた造り酒屋を後にしていた。江戸までの一本道、斑平は走った。

屋台的映画館
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砂月(すなつき)
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